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ダシャーシュワメート・ガートでは、まだ夜も明けていない薄暗闇のなか、すでに沐浴する姿がいくつも見られた。それぞれに真剣である。一心である。ガンジス河を信頼している。迷いなく、疑いもなく、ガンジス河に身をひたし、祈り、己を清める。その姿を改めて目の当たりにした俺は、沐浴する最終決断をした。
とまどいはあった。日本人の俺が入ってどうなる。意味はあるのか。周りからバカな目で見られるのではないか。病気にはならないだろうか・・・。
でも、そんな心配を押し切る何かがあった。俺はおもむろに立ち上がり、服を脱ぎ捨て、階段状に下に沈んでいく地面を一歩、一歩、ゆっくりと降りていった。思ったよりも水は温かく、まるで人肌のようなやわらかいぬくもりがあった。そして、肉、灰、血、唾液、汚物、汗、洗剤、泥・・・、そんなあらゆるものが溶け出した濃厚な水質は、とてもなめらかで、やさしく、すべすべと体を包み込むような懐の深さがあった。言葉では言い表せないような安心感が身を包む。まるで、大きなものに、抱擁されているような感じがする。何かが守ってくれているような感じがする。ゆるしてくれそうな感じがする。そんな、心の奥深くに食い込んでくる深い安堵があった。
沐浴しながら、ガンジスの雄大な流れのなかで、ゆるぎない安心感に身をひたしながら、しかし俺は俺でしかなかった。目をつぶったその向こうには、やっぱり俺がそのままの姿でそこにいた。宗教を持つ、持たないなんて、関係ないと思った。手を合わせるその先に見えるもの、それは、やっぱりその人自身なんじゃないかと思った。
なあんだ、探していたのは、自分自身だったのか。
そう、ガンジス河で身をひたしながら思った。よく「自分探し」なんて言葉を聞くけど、「おいおい、なんやねん、そんな陳腐な考え、ふん」と、そんなチンケな考えを蹴散らしていた。俺はいまの仕事を始めてからというもの、ほんとなにもかもが失敗だらけで、うまくいかなくて、もうどうしていいのかわからないくらいに落ち込んでいた。もう辞めようかな、そう思ったことも何度もあった。インドへ行く前が、そんな辛さのピークを向かえたときだった。でも結局は、そんな辛い現実のなかで見失っていた自分というものを、どうにかして、取り戻したかったのかもしれない。
自信のないとき、うまくいかないとき、辛いとき、人は何かにすがりつきたくなる。漠然とした“何か”に向かって、祈り、願い、希望し、期待し。その漠然とした“何か”は、人によって、国によって違うけど、でも結局は、その人の心の中にあるんじゃないかなあと思った。
自信とは、自分を信じる、と書く。自分で自分を信じられるよう導いてくれる神様は、やっぱり自分自身のなかにあるんだなあと、そのときやっと分かった気がした。
なあんだ、探していたのは、自分自身だったのか。そんな当たり前でいて、実はちょっと大切なことを知るために、俺はここ、バラナシに来たかったのだと確信した。そして俺は、バラナシに来てよかったと、そのとき思った。
ふとガートに目をやると、インド人の女の人が、ひとり、俺のほうをじっと見ていた。俺が目を向けたことに気が付くと、かすかに彼女は微笑んだ。
おわり。
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